この新聞記事における漠とした「セクハラ」とは?「日本社会」とは?

mainichi.jp

個人的な感情はさておき改めて、問題の切り分けをして議題設定する時期に来ているんじゃないか。とりあえず湧いた疑問を書き出しておく。オチはないです(・ω・)ないですよ

 

1) 毎日新聞がこのオピニオンを掲載する意味とは何か。


 牟田氏が正しく依頼内容を汲み上げているとすれば、「政権攻撃」だ。 # Me too運動のフレームを「無辜なる市民」の連帯とまとめた上で、麻生大臣を標的にその舌鋒を奮っている、その「落差」なり「階層」なりを念頭に置いた文章は「正解」だというコトだろう。それは一般的な社会における政治・経済活動としては正しいのだが、このフレーミングそのものがステロタイプな消費前提になっているのが気にかかる。加えてもう一点「私たちには声を上げる人をサポートしていく姿勢が求められている」とまとめにあるが、「私たち」とは誰と誰の連帯を指すものなのか。談話なので記者のまとめがまずい可能性を疑ってはいるが、それは当事者意識の発露というよりも、ある種の道徳的上位者が社会にはいて、「私たち」はそちら側だという宣言にも読めてしまう。それは「共感性」が重んじられる昨今に有効な言説なのかどうか、気にかかる。

 そしてもう一点、このインタビューは労働問題なのか、社会的なジェンダーの問題なのか、それが混じり合ってしまっているところにフェミニズム的言説だけで押し切る政権攻撃の限界が見えているのではないか。ココで # Me too運動からはっきりと男性はパージされているのだ。こういった際に報道が選択する安易なフェミニズムの引用は、往々にして男女に対するまなざしの不均衡という問題があると個人的には思うのだけど。牟田氏も記者から散発的な質問を投げられたから、一貫しない個々の回答になっているだけなのだろうか。

 

2) 「国際基準」というモノの正当性が自明な筋立ては、どこまで有効なのだろうか。


 伊藤氏がマクラに置いている「日本社会は乗り遅れた」というフリ…「日本は○○後進国」、ビジネス雑誌からタブロイドまで手垢にまみれるどころか埋もれたレトリックだ。世界各国を何らかのランキングで仕分けして、自国を上げたり貶めたりするのに便利な仕組みであるけども。裏を返せば「先進国」というのはどういった基準で導き出されるのか、という仕組みさえ考えれば、この論法で示される「日本が目指すべき目標」の正体と恣意的な基準が無残にも明らかにされるだろう。ましてその「理想的国家や社会」に具体性がない場合、話者の想定内にある私の私による私の考える自由」を絶対的に求めるコトになってしまわないだろうか。そしてこちらもまた、麻生大臣攻撃が撃ち込まれている。恐らく牟田氏にも伊藤氏にも、記者が質問を差し向けたのだと思う。

 また、「人権の観点が欠けた経済一辺倒の議論だった。そのひずみが今回の前財務事務次官のセクハラ問題で噴出した」という談話の前後はつながっているだろうか。「次官」と「記者」の関係、あるいは「報道責任者」と「記者」の関係、「次官」と「報道責任者」の関係、「省庁」と「報道機関」の関係…この問題が表す社会的関係は様々な切り口が考え得るのに、ただ「経済のひずみ」に落とし込むような安易な議論を学者はしないモノと信じたい。伊藤氏の男性学からの視点を、記者がまとめきれていないだけであってほしい。むしろ末文の「セクハラにつながる女性観や男性主導社会を変えることは、無理に無理を重ねて喪失した男性の人間性を取り戻すことにもつながるはずだ」から議論が始まる必要こそあるだろう。

 

3) 学者・学者・弁護士という構成がとられた意味とは。

 

今津弁護士の「答弁書は、法的には正しい。しかし、麻生発言の背景には「そういう罪はないから大騒ぎする必要はない」という思いが透けて見える」というツカミは、「論理的な正しさ」+「想像に基づく情緒的な感想」という構造になっていて、読者を誘導する性質のものだ。弁護士は常に法廷において当事者を分断して一方の正義を守るコトを生業にしているので、当然と言えば当然だ。であればそこには記者の視点なり、反証的な言論人を入れてバランスを取らないとジャーナリズムの死を意味するのだが、毎日新聞が大臣の首を取りに行っているのでこうなるのだろう。

 「企業研修で「女性の容姿や服装をほめてもいけないのか」と質問を受けることがあるが、私は「では男性の容姿や服装もほめますか」と聞き返す。外見でなく仕事の内容でほめるべきだ」こうした「べき」論は法務的研修においては有効だが、一般的な社会活動に敷衍しきれるものではないし、行動ひとつひとつではなく場における関係性に目を向けたもう少し有効な議論立てが出来ないモノか、と思う。

 

4) 毎日新聞は何を変えたいのか。

 

タイトルが「日本社会」という漠としたものであるがゆえに、「セクハラ」という言葉の定義もかなり拡大され薄まったモノであるように思う。しかし聞いている内容はビジネス上の一局面であったり、ネットの現象であったり、官庁と記者クラブの関係性であったり、散漫なモノにして一般化するには難しい上に、個々の局面と向き合った切り口だとは言い難い。このコーナーに掲載されて得をしているのは、「宣伝」という意味で今津弁護士だけなのではないか。

やりがいに見合うPR戦略がいるのではないかな。

「募集にあたってはボランティアのやりがいをわかりやすくPRしていくことが必要だ」といった意見が出たとか出ないとか(´・ω・`)

 

www3.nhk.or.jp

 

 報道を観ただけの感想だけども…

 まず広報がお粗末かなと。やりがい=「ハナからギャラはナシ、参加するコトに意義がある、全てはあなた次第」を目指させたいのなら、いっそもしギャラが出る関わり方をした場合、ボランティアの比ではないどんなに大変な労苦があるのか、組織委員会の現メンバーの現状からでイイからアピールしてはどうか。そこで「いまどんな状況」なのか、何が「足りない」のか何が「出来る」のか、という個人からの共感を得た上で、協力者の必要を折に触れメディアの「枠」(テレビ・ラジオの連続ミニ番組や新聞のコラム連載、SNSなどでの専用アカウントからの発信など)を押さえて訴えていった方がイメージしやすいように思う。「全方位募集」みたいな、アマチュアバンドの「当方ボーカル、全パート募集」のように出しっぱなしでアタマの悪い広報はイカンでしょうと。

 遠目に見ていると運営主体である組織委員会は、「大会の雰囲気を醸成する」「成功へと導く活躍」「成功の担い手に」「まさに大会の顔」(いずれも公式サイト「東京2020大会のボランティア活動」 https://tokyo2020.org/jp/get-involved/volunteer/about/ より)といった抽象的でふんわりしたアピールする割に、直接バラバラの個人の資質・スキル・行動力などにばかり期待していて、組織の細やかな運営に対して社会的に鳥瞰する目線そのものが絶望的に不足してるんじゃないか、と思わざるを得ない。

 その上で運営への不安がにじむ。広報からは組織委員会直轄で大量の個人個人を束ねるイメージなのが気にかかるのだ。まず経団連企業や大手広告代理店が主体となった組織的ボランティアを率先して立ち上げ、個人ボランティアを統合的に運営する小委員会か何かを作り、ボランティアに対する責任感を示すのが先だろう。その上でNPOなどと協力して、目的別かつ具体的な項目で募集掛けるのが効率的なのではないか。時間もないし。ボランティアに関する組織概念図( 「東京2020大会に向けたボランティア戦略」 https://tokyo2020.org/jp/get-involved/volunteer/data/volunteer-all_JP.pdf )を見ても、ただ並列的に有給スタッフの横に描かれているだけで、運営と個人の間に立つ企業やNPO法人などによる組織的ボランティアの在り方そのものを想定できていないんじゃないか。あるいはボランティアを運営主体とみなしながら、一方でそこで起きる責任に対応する主体の「顔」が見えない…という感想だ。いやむしろ積極的に責任から逃げられたりしたら困るのだけど。そこへの言及がないのは不親切だ。

 実際の話、ある程度協力企業の名を連ねた名義貸しみたいなカタチだけのモノでも恐らくイイだろう、「気運」の醸成と大枠の「責任主体」の明確化が目的だから。国家から上意下達・翼賛的に国民総動員体制を作りたいのなら、「組織の空気」が日本人は一番ノリやすいし、それにノる人たちなら、ボランティアも厭わないはずだ。ついでに最初にボランティア統合管理の仕組みを作っておけば、名義に挙がる企業の成員や顧客による安定したメンバー構成も期待できる。それをベースに一般個人からの応募も受け付けられる。主体がはっきりしていれば企業成員からのグループ応募もしやすいだろう。またはサクラじゃないが、運営に方向性を与える演出や機運醸成をしたり、メンバーの管理や不審者の監視などを目的として、運営側から身分を明かさず入れる人員を入れる方法もありうる。ついでにボランティア同士の「善意」による隣組的相互監視も出来るワケで、たとえば万が一その中にテロリストが紛れ込んでも一つリスクは下がるだろう。

 なんというか、もう2年前を切っているこの期に及んで、こうもお粗末な大会運営見せられると中々に絶望的だ。事前の売り抜けばっかり考えてるからじゃないですかねえ(・ω・)とイヤミの一言も呟きたくなる。組織委員会は開会のみをゴールとしていて、開会してから起きるコトへの想像力が決定的に欠けている気はする。

…あと人望がなさそうっすね。「そういう発表したらコレコレこういうトコがヤバいですよ」って、誰も気づいても進言してないカンジで。何か日大アメフト問題と重なってきた(´・ω・`)

「午後ティー女子」炎上案件にて思うナリ…広告の製作過程の「どこ」で表現は成立するのか、「どこ」なら止められたか?

 燃えましたねえ。コレはSNSで基本的に目線が同じ「平等」というコンテキスト上にいる人物間で共有される"悪口"であって、企業からのマスなメッセージとしては通用しなかった案件なのだと、取り急ぎの総括をしておこうかと。 

www.huffingtonpost.jp

 

その上で、ツイッターで連続投稿しながらコトの経緯を妄想したので、それを記録がてらまとめておこう。Togetterのセルフまとめやってもいいんだが、あちらは公開するのが怖くなるので(^^;

さて、こういった炎上については後の教訓なり、なにがしかの研究なりのためにもなるだろうし、ホントはCMの製作過程の上で、どことどこで最終責任者であるクライアント企業での判断が行われたかという確認は開示されていいと思う。「外注だから」とかちょっとした事情通気取りで言い放つ輩もいるが、それは単なる役に立たない思考停止。ある商品の広告は、そのプランニングから表現に至る過程の上で、ポイントポイントに必ずクライアント企業の決裁があるのだ。

 

もう少し具体的にいうと、ある商品の広告を作る際には、商品とコンセプトが広告会社に提示される。広告会社はその意をくんで最低3種程度のプランを返す。なぜ3種かというと、「本命」「別視点」「かませ犬」に分けて、クライアント企業に考える余地を作るのだ。この選択時に「クライアント企業の責任」がまず一度発生する。なお、「かませ犬」が通る場合も往々にしてあるので、それで手を抜くコトはクリエータには許されない。

 

次に3種の中から選ばれた1つのプランに基づいて、具体的なコンテ・演出プランが広告会社によって制作され、キャスティング案なども含めてクライアントに提示される。コレもまた最低でも2種、時間的余裕があればココにも「かませ犬」を入れた3種が作られる。ココでクライアントの二度目の決裁となる。

 

続いて、無事通ったプラン一つに対してクライアント各部署内でのチェックが行われつつ、広告会社も具体的な準備をする。無論この過程で幾度かやり取りがあり、その数だけクライアント・広告会社の双方で細かな決裁や判断が行われる。ちなみにこの間のやり取りとチェックと直しが度を越して多い担当者は「仕事ができない」と言われる。

 

そんな艱難辛苦を乗り越えて、撮影ないし制作の運びとなる。動画やポスターは、スタジオの一番いい場所にクライアント席を用意し、見やすい場所にモニタを設営する。多い場合は複数部署の人間が10人以上も並ぶので、大きなスタジオが望ましい。イラストも高く性能のいいプロジェクターに投影してのプレゼンだ。

 

この段階で部署や役職、会社の垣根を越えたクロスチェックが行われ、その場での様々な決裁が行わる。もう何度目か何十度目かなどは関係ない。なお、ココに至るまでに逐一報告も上げてきたはずで、大した返事もなかったのに、この現場でちゃぶ台返しをする偉い人がいたりするので、細心の注意が必要だ。また、完成品そのものは出来上がっていないので、その場においては担当者のプレゼン能力がモノを言うが、あまりその能力頼みにすると、後から「待てよ」…となった人からの痛いトコをついたチェックが入ったりするので気は抜けない。

 

色々あったかもしれないが、仕上げ段階に入る。動画なら編集・録音スタジオそれぞれに必ず判断のできるクライアント担当者が同席する。現場にすら来なかったのに、編集段階やフィニッシュ段階で出現するちゃぶ台上司もいる。もうこの辺になると「今更!」と言い返さず、うまく黙らせる人材がチームにいるかいないかでしかない。

 

さあCMが出来た。だが、ココで終わりではない。完成CMを改めてクライアント企業の会議室などでプレビュー、試写会だ。すると、文字の色・フォントやモデルの髪一本のようなレベルでダメ出ししてくるモンスターが出現する。出来る限り一からにならない、傷の少ない進行という試練がクライアントと広告会社の現場実務者に負わされる。

 

そうして試練を乗り越えてきたCMだが、放送局や出版社の「考査」を経てOKとならないと、マスメディアには乗らない。大体の場合は通過するが、「誇大表現」とか「科学的な誤謬」とか割合表現の根本にかかわるところで、クリティカルヒットになったりする場合がある。なので、この段階で修正が入ると、仕上がりに何やら不自然な処理が入ったり、※印の注意書きが妙なところに増えたりする。無論考査後のモノが最終版なので、改めて最後のチェックもクライアントは行う。

 

つまり説明してきたとおりCMにおいては、クリエータや広報部のメンバー一人に限らず誰か個人の独走で表現に至るコトは、原理的にあり得ないといえるだろう。まして「下請け丸投げ、クライアントノーチェック」などというコトもまた、生じえない。

 

ホントは、こういった過程のどこで判断を誤ったか、が広告炎上議論では大事なんよね。加えて、特に「考査」を意識しなくていいWeb CMの場合、炎上リスクは逆に増大すると考えた方がいいと思う(・ω・)